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武術の来た道
日本の武術はどこから来たのか?それが紀元前にインドまで攻めてきたアレキサンダー大王と結び付いているとしたら?古代オリンピックのトレーニング制度とも関係あったとしたら?実はみんな大いに関係があったのだ!アレキサンダー大王から始まる日本への武術の道……悠久の時を越え武術ロードが甦る!
第8回 法相宗と諸賞流−留学僧の伝えた武術

 遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説があることは前回も述べた。

 その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、智通、智達が第二伝、興福寺を中心に普及した智鳳が第三伝、玄ボウが第四伝だが、みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。

 法相宗第三伝の智鳳の高弟に岡寺の開基者である義淵(〜728)がいる。中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。僧兵で名を知られるのは奈良の興福寺、比叡山延暦寺だが、僧兵とは寺院が自衛のためにおいた武器をもつ僧。平安時代中期、寺院がその荘園を貴族や武士の侵入から守るためにおいたのが始まり。特に興福寺、延暦寺の僧兵は強力で、しばしば朝廷に押し掛けて強訴(ごうそ)を行い,寺院の要求を認めさせようとした。これらを見ても法相宗の僧侶と武術は強い関連があったことが知られる。

 さて奈良・興福寺は藤原氏の氏寺として知られるが、日本最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。また奈良の岡寺には、暴れ龍を退治した義淵の伝説があるし、他には義淵が、強い法力の持ち主であったこと、人々の危機を救い、盗賊を捕らえた話なども伝えられている。

 同じ法相宗の京都・清水寺は征夷大将軍・坂上田村麿(758〜811)と深い関係があると伝える。田村麿は人生の多くを蝦夷地平定のため武人として働いてきた人である。古伝柔術の流派・観世流は流祖を坂上田村麿としている。

 「観世」とは、世の中の本質を見透すという意味であり、法相宗の「法相」とは、すべての事物のあり方(諸法のあり方、つまり法相)を究明しようとしたところからつけられたという。いずれも仏教典籍の中の言葉である。

 その後、田村麿の子孫は家伝の武術を引き継いで各地に散らばるが、特に五男の滋野は東北地方を与えられ、やがて関東に勢力を広げる坂上党の始祖といわれた。坂上家家伝の武術・観世流はこうして関東武士の間に根付いていく。関東武士の中に広がった観世流は、源頼朝が鎌倉に幕府を開き征夷大将軍となった儀式の相撲会(すもう試合)のとき、観世流27代を名乗る毛利国友が諸国の力自慢たちを投げ倒した。この活躍で頼朝から賞せられ「諸賞流」の名を与えられた。諸侯が賞賛した武術の意味で「諸賞流」という名を賜ったったという。技法は肘当、前蹴り、手刀などが特徴である。諸賞流は今も岩手県に伝えられており古武道大会などで見られた方も多いことだろう。

 インドから来た仏陀禅師、達磨大師による禅法と拳法は崇山少林寺に根付き、その法系には仏教典を求めインドへ旅した玄奘三蔵がおり、その流れは日本人留学僧により我が国へ伝えられて来たのであった。

坂上田村麿
坂上田村麿(東京・矢先稲荷神社天井画、馬の情報館HPより引用)

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