この人にこの技あり
田村大五(小社顧問)
第12回:中島治康の固め打ち
自らの打第1号」と認定された中島治康。しかしその強打者は、意外にも東京六大学ではほとんど実績を残せず、プロ入りの際にもその打撃を酷評されていた。引退後も自らの口で打撃について語ることがほとんどなかっただけに、ある意味ではナゾの強打者でもある中島。彼が雄弁に語ったのはむしろ守備の話だったが、あるいは打撃の秘密をそこに垣間見ることができるのかも―。
「野球のイロハのイを大学で習い始めた」
日本のプロ野球史上、打撃三冠王第1号打者、中島治康(38年秋、38試合で打率.361、本塁打10、打点38で各部門1位。65年、内村コミッショナーが認定)は、自分のバッティングについてはほとんど語らない人で知られた。戦後すぐの46年、巨人の監督兼外野手として2シーズン過ごしただけでユニフォームを脱いだが、以後、読売新聞社運動部に所属しながら、アマチュア野球一辺倒、「プロ時代の自分のバッティング」どころか、ことプロ野球に関しては一切口をつぐんでしまった。
私も報知新聞社運動部にいた関係で、神宮球場ネット裏記者席(東京六大学リーグ戦取材)でよく隣り合わせて他愛もないおしゃべりとともに観戦したが、プロ野球の話題には乗ってこなかった。
なんとか“口を割らせたい”と東京世田谷区砧の自宅を訪れたのは80年春のことだった。当時「月刊ベースボールマガジン」で長期連載中の「歴史再発掘シリーズ」もすでに40回近くなり、戦前の「名選手」といわれた人たちの取材はほとんどすませ「あとは初代三冠王のみ」という状況だった。「アンタもしつこいなあ」と言いながら自宅訪問を許してくれたのは3度目の電話のときだった。「ただし、来たってアンタらのタメになるような話はなんにもないからね。原稿になる話なんかかいよ」とも言われての訪問だったから、ほかの元名選手に対する以上の“準備”が必要だった。
で、治康少年期の大正年代後半の“信州の野球環境”から松本商業のエースとして全国制覇した夏の甲子園大会(28年)の記録、早大時代の記録と古い資料を調べているうちに早大時代の記録がほとんど残っていないことにまず「?」と感じた。
砧の自宅で、それが薄紙がはがれていくように、おぼろげに“見えて”くる感じがした。少年時代の話になると、中島は驚くほど能弁になった。松本市の郊外、当時の呼称でいう長野県東筑摩軍中山村近辺の「5号ボール」という硬球に近い球を使って盛んだった(当時としては)レベルの高い少年野球時代から、のちに巨人監督となる藤本定義のコーチを受けて出場する夏の甲子園大会優勝までの回顧録は楽しそうだった。それが、一転、まず早大時代の思い出話になるころからプツンと切れるのだ。中島の早大入学は31年だが、甲子園の優勝投手だというのに、ほとんど話題になっていない。
「早稲田の野球部に入ってね、私はね、つくづくイナカ者じゃワイと思ったんだ。肩を痛めて投手は落第、バッティングったって自己流。ぜんぜん当たりゃせんのだもの」。公式戦には33年春、9試合出場、31打数6安打、打率.194。「野球のイロハのイを、そこで習い始めたんだ」
早大を卒業、藤倉電線にいたら早大時代の監督・市岡忠男に呼ばれてベーブ・ルース一行を迎える全日本チームに加わるのだが、そこでも「いい肩をしているが、どうしてああカーブに弱い中島、果たして本気で職業野球入りするのか」などと書かれる始末。「選球ということを知らず、何でも打って出る危険性ある打者」とか「好球を見逃したかと思うと、悪球を凡打してしまう」とか、当時の“酷評”のコピーを本人の前に並べて読んでもらったら、笑った。「こっちは、要するに打ちゃあいいんだろうと思っていただけなんだ」
中島への酷評がガラリ一転、賛辞へと変わっていくのは「後楽園球場開場の日」(37年9月12日)の2ホーマーからだ。本塁打王が6本という時代の1試合2本。「この男のバットは怖ろしい。当たるとどこへ行くかわからぬ。打ち易いと思えばどんなのでも打ってしまう。ボール球でも打つのだから彼にとってはストライクの範囲が広いわけだ」、「ストライクくさいボール、ストライク・ゾーンからきわどくボール圏に逃げる誘い球、普通の打者ならひっかけて凡打に終わる微妙なコースに、膝の柔軟な中島は、モチ竿のようにバットを使って粘っこくボールに食らいついてヒットにする」、「彼には優れた視力があり、抜群の腕力があり、スイングの力強さがある。その上に機略に富んでいる。一見大まかではあるがすこぶる細心に相手投手を研究している」などなど賛辞のオンパレード。
ニヤニヤ笑いながら古い資料のコピーを読んでいた中島は、言った。
「よせやい、という気持ちだな。そんな高尚なもんじゃない。なんでもかんでも“来た球”を打っただけなのに」
三冠王は「右翼ゴロ」を得意とする外野手だった
中島宅に出かける前に「プロ野球記録大鑑」の著者、宇佐美徹也さんが、貴重なデータをふたつ、教えてくれた。ひとつは、「固め打ち」。10月11日から11月5日までの11試合、「1試合4安打」5試合を含む48打数28安打(8本塁打、20打点)。それまで.285だった打率を一気に.398まで上げた固め打ちだ(最終打率は.361)。
「覚えてるよ。なぜ? なぜと言われても答えようがないな。振りゃ当たるんだ。当たればヒットになった。球がよく見えとったことは確かだな。それ以外の理由は分からん」と、ここでも本人はいたってそっけない。
宇佐美氏がくれたもうひとつのデータは右翼守備に関してのものだった。氏は、戦前の中島が出場した試合のスコアカードを一枚一枚丹念に調べていって、ほかの外野手には見ることのできない“右翼ゴロ”数多く発見したのだった。「戦前の野球のことだから、いまと比べて外野手の守備位置は相当前だったと思う。それにしても“右前安打”を一塁に投げて刺したのが14回、二塁へ投げて一塁走者を封殺したこと6回というのは、相当な強肩でなければできない技ですよ」
バッティングについてはノラリクラリと話をハグらかしていた中島が、その右翼守備に関してだけはマジメな顔でしゃべったのはなぜだったのだろう。
「外野手というのは、ただ強肩であればいいというものじゃないんでね。その打者の打球のクセを日ごろよく頭に入れておかなければいかんわね。それに投手の投球コース、そういうものを見極めておいて、右前へゴロが飛んできた場合、どの辺にいたら走者を刺せるか見積もっていなきゃぁ、いい外野手とはいえんのだって、いつも自分に言いきかせてはいたね」
この右翼守備に関する言葉はまた「固め打ち」に代表されるバッティングに関してもあてはまるのではないか。そう言い返したら、中島はまたニヤッと笑っていった。「まあ、な」(文中敬称略)
1910年6月28日生まれ、長野県出身。松本商(現松商学園高)では、28年夏に甲子園で優勝。早大―藤倉電線を経て、34年に全日本に参加、そのまま巨人に入団。38年秋には三冠王(のち認定)となる。43年と46年途中から47年途中まで監督兼任。50年に大洋に移籍(50年監督、51年助監督兼任)、51年限りで引退。MVP1回(38年秋)、首位打者2回(38年春、秋)、本塁打王2回(37年春、38年秋)、打点王4回(37回秋、38年秋、40年、42年)。63年殿堂入り、87年没。通算成績は871試合、889安打、57本塁打、493打点、打率.270。
週刊ベースボール 2004年 6月21日号掲載


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