この人にこの技あり
田村大五(小社顧問)
第6回:尾茂田叶、坪内道典の外野守備
戦前、戦後の野球界で華麗な「回転レシーブ」を見せた2人の名外野手
近年、メジャー・リーグでは、本拠地の「天然芝回帰現象」が起こっているが、日本では多くの球場が人工芝である。そんな球場が多くなって、あまり見られなくなったプレーが、外野手のダイビングキャッチだ。かつて、人工芝がなかった時代には、いや、外野に芝さえないような時代にも、外野手はダイビング、さらには「回転レシーブ」のようなキャッチまでやっていた。今回は、そんな妙技を見せた2人の名外野手の登場である。
背中に“熱線”を感じ、振り返ると打球が
SHINJO(新庄剛志=日本ハム)のセンター守備を見るたびに“もし、あの2人がこのプレーを、いま見ていたら、どんな感想をもらしただろうか”と、かつて「名中堅手」と評判が高かった二人の名外野手を思い出す。
ひとりは、明大から戦前のセネタースで活躍した尾茂田叶、ひとりはプロ野球草創期の大東京から戦後の中日までプレー、監督も務め西鉄、ロッテの二軍監督から中日の合宿寮長にもなって92年に野球殿堂入りした坪内道典(36年から48年まで道則)だ。
筆者は、戦前のセネタースの尾茂田の話題のプレーは見ていない。が、戦前の珍しいフィルム記録、「野球の妙技」と題する当時のトップスターたちのプレーの連続写真でその「回転レシーブ捕球」を見、松山・道後で温泉旅館を経営していた尾茂田を訪ねて一泊、詳しい話を聞いたことがある。
親しい交際を願った坪内からじっくり外野守備の話を聞いたのは、かつての中日キャンプ地・串間の宿舎で、だった。坪内は戦後すぐの47年5月、当時の連盟から「野球名人」というその前にもあとにもない珍しい表彰を受けた史上ただひとりの選手だ。
「外野手は“打者が打った、ソレッ”と打球めがけて走ったのではダメ。遅い。ボールにバットが当たる前に、自分の足が本能的に動いていなければダメ。それでいて打球へ向かう方向も距離も間違わず走ってる。そういう境地にならないとプロの外野手とはいえないのですねえ」
ホーム側に背を向け、外野スタンドに向かって走る。打球が落下してくる寸前、パッと振り返って難球をつかむ独特の背走守備。「戦後になって名守備、名守備と褒められたけど、自分で一番自信を持ち、うまく守れたなと思ったのは昭和10年(1935年)、11年ごろだった」と言う。
当時、海辺近くにあって満潮時になると外野方向から海水がにじんできたことで知られた洲崎球場という球場があった(いまは跡形もない)。
「あの球場、砂地。下が柔らかい。ぼくらのチーム(大東京)、外野手が3、4人しかいなかったから、練習は最初に打ってしまうと、あと2時間くらいずっと守り続け。打球が抜けていくと、約2時間、何度も何度も塀の下まで走って捕りにいかなならん。それが苦しかった。だから、練習中、ある意味では試合中以上の必死さで守りました」
そういう練習を繰り返していたある日、不思議な現象が起きたことを、のちのちまでハッキリ記憶していた。
「ホーム側に背を向けて走っていくとね、頭のてっぺんから背中にかけて、言葉ではうまく表現できない熱いものがツツーと流れていくのを感じた。強いて言葉で言えば“熱線”とでもいうかな。その熱線が背中の真ん中あたりにきたときパッと振り返ると、そこに打球が来てる。例えば、太陽光線をレンズで焦点を絞って紙を焼いた経験があるでしょ。一点に絞ったときパッと燃える。あのタイミング、あの感じだと思ってくれればいい。剣豪小説なんかでよく“背中に眼がある”なんていうじゃないですか。その言葉、ぼくは実感でつかんだ。パッと振り返る、そこにボールがある。ボールの縫い目まで見えたんだから」
砂場での練習から最後は硬いグラウンドへ
坪内は、前の打球にも強かった。戦後、49年、中日に移ったとき天知俊一監督に「ツボやんは右からも左からも回転できるんだな」と誉められたことがある。前の打球に突っ込んで飛びつき、勢いのあまりつかんで一回転する動き。
「普通の人は、利き腕のほうからしか回転できない。ぼくはセカンドオーバーの打球でもショートオーバーの打球でも両方できた。で、捕った瞬間グラブを内側にギュッと向ける。それを空中で回転しながらやる。ピタリと決まると面白かったなあ。ぼくは柔道もやっていた。受け身ができる人でないと危ないから、あまり人にすすめられるプレーじゃないんだけど」
ハワイ生まれで10歳のとき母親の実家のある松山にきた尾茂田は柔道の経験はないが、「頭から突っ込んでの一回転キャッチの名人」で知られた。
「私が、小学生時代から、足には自信をもっていた陸上競技選手だったからかもしれないが、普通のセンターの守備位置から前進また前進、全速力で走ってもなお“あと一歩”で打球に追いつけなかったときひどい屈辱感に襲われましてね」と尾茂田は苦笑しながら言った。
その「あと一歩」がなんとかならないかと考えたのが、ジャンプして打球に飛びついていく方法だった。それが「危険な捕球法」だということはもちろんわかっていた。一つは「試合の勝敗につながる」危険。走者が塁にいて“センター前ヒット”という当たりは確実にワンバウンドで処理するのが安全策。無理に突っ込んでうしろにそらせば得点につながる長打になる。もうひとつはケガをする危険性。事実、別府球場で尾茂田自身、右肩を骨折したことがある。それでもなお挑んだのは、尾茂田の言葉によれば「冒険に成功したときの快感」を求めた、ということになる。
「まず、捕球しながら倒れても痛くない砂場を探し、そこで左右から、とても手が届かないようなボールを投げてもらった。初めのうちは立っている地点からジャンプしてボールに飛びつく練習。次に走って勢いをつけたジャンプをすると頭から地上に落ちていく。そこでまた次は、頭から落ちても一回転してすぐ起き上がり、次の動作に移る練習。砂場で、そのコツを覚えたあとは、硬いグラウンドの上で抵抗なくスムーズにそういう一連の動作ができるかどうかだった。そのうちに痛いとか痛くないという感覚がなくなってきた。ジャンプして飛びつき一回転、という捕球に自信をもったのはそれからだ」
尾茂田も坪内も、そういうプレーを支えたのは「打者を研究していたことだ」と力説した。
「その日の投手の出来具合と球筋と、打者のクセ、打球の傾向を組み合わせて、守備位置を一歩でも二歩でも“飛んでくるであろう方向”に近づいておいてこそできるプレーだ」と。
2人とも、川上哲治の打球とか、藤井勇の打球とか、それぞれ具体例をあげて語ってくれたが、紙数が尽きた。いずれ、このシリーズで具体的に記す機会があるだろう。(文中敬称略)
1909年10月19日生まれ、愛媛県出身(米国ハワイ州生まれの日系2世)。松山商では28年のセンバツ出場。明大を経て37年にセネタース入団。38年秋、打率.300で2位に入る。40年応召。復員後は丸善石油、愛媛相銀の監督を務める。通算成績は271試合、275安打、9本塁打、150打点。打率.261。
坪内道典(つぼうち・みちのり)
1914年4月7日生まれ、大阪府出身(愛媛県生まれ)。松山商―天王寺商―立大を経て36年大東京入団、44年まで務める。43、44年は監督兼任。戦後、46年にゴールドスターでプロ復帰。49年中日に移り51年限りで引退。その後は西鉄、中日、ロッテでコーチ、二軍監督、寮長などを務める。92年殿堂入り、97年没。通算成績は1417試合、1472安打、34本塁打、462打点。打率.262。
週刊ベースボール 2004年 5月10日号掲載


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